現代芸術にはそれまでの芸術の定義に収まらない多様性がある。しかし村上氏の作品が芸術と呼べるのか、それは大いに疑問だと思う。
ある作品が芸術か否かを定義づける明確な基準はない。ある人から見れば子供の落書きのように見えるジャン・デュビュッフェの作品は芸術に定義される。
一方で権威の後ろ盾の有無が芸術の定義となるのは本質的に間違っているが、現実はそうなんだろうね。
そうなると創作されたものは何でもかんでも芸術と呼んでいいのか?私はその考え方には反対だ。例え感性的な根拠であっても芸術とそれ以外は区分できると信じるし、また芸術の質を保つためにもそうあるべきだと思う。
その見地に立つと、芸術の定義の曖昧性と現代芸術の多様性に託けて、芸術を"装っている"作品がいかに多いことか、と感じる。村上氏の作品もこれに該当すると私は思う。彼は芸術家ではなく「クリエイター」だ。その作品はどう見てもサブカルとしか思えない。
彼の作品の土台がサブカルにあることは疑いないんじゃないか?「サブカルを土台にした作品は芸術にはなれないのか?」と言われればそんなことはないだろうが、ではこれを芸術作品に転換させる根拠は何なのか?その辺が明確でないのなら、やはり彼の作品はサブカルなんだろう。
サブカルの作品はどうこねくり回しても芸術とは呼べないと思う。そもそもサブカルチャーはハイカルチャーから区別された領域を指す言葉なのだから両者は根源的に区別されている。それだからサブカルチャーの産物としか思えないものを芸術作品と呼ぶことには反感を感じる。
しかし私は別にサブカルを蔑んでいるわけじゃあない。私自身『ジョジョの奇妙な冒険』の大ファンだし、マインドリセットのために年の初めには欠かさず『AKIRA』(大友克洋)を全巻読破している。
またサブカルチャーをハイカルチャーに比べて劣ったものとみているわけでもない。そもそも両者は別次元のものだ。ボッティチェリの「受胎告知」とジョルジュ・レミの「タンタンの冒険旅行」を同じ物差しで評価できるだろうか?できるわけがない。しかし両者はどちらもすばらしい作品であることに違いはない。
サブカルチャーはハイカルチャーに比べて劣っているわけでもなんでもないのだから、むしろ積極的に自己の「サブカル性」を主張するべきだ。それを芸術として語ると、何かサブカルに後ろめたさを感じているのかと思えてくる。
ベルサイユ宮殿での展覧会開催に関して、私にはこれを批判する言葉は特にない。
ただ強いて言うなら、やはり作品の良さを際立たせる場所で行うべきだろうと思う。その意味で村上氏の作品が宮殿の雰囲気にマッチしているとは思えないし、この場所が彼の作品を十分に引き立てるとも思えない。
【日記の最新記事】


明るい未来を信じよう♪
暗い日常は自ら切り開くモンだぜ?
http://816z2f4.plistfa.info/